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市報松江 2019年6月号

コラム神国の首都 Vol.115

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島根県松江市 クリエイティブ・コモンズ

松江市街地を流れ、宍道湖と中海を結ぶ大橋川、その大橋川を南北に結ぶ松江大橋。松江のシンボルである一方、市民にはあまりにも見慣れた風景ですよね。当たり前すぎて、「大橋川と大橋の名前はどちらが先についたか知っていますか?」と聞かれたときには絶句してしまいました。皆さんも、きっとそうですよね。
さて、どちらが先なのか―。「出雲国風土記」から始まり古代、中近世、明治、平成までの文献や資料・写真などを綿密に調べ上げた稲田信さん(松江市史料編纂課長)の推論も交えた解説に思わず「合点、合点」。

■中世には竹の橋?
結論から言えば、大橋がかなり先なのですが、これには斐伊川の流れの変化が大きくかかわったのでは、と稲田さん。古代や中世の尼子氏の時代、斐伊川の水は今のように松江側に向かって流れておらず、逆に西に向かい大社湾へと流れ込んでいました。このため、宍道湖は池のような状態だったようです。今の松江大橋付近には竹の橋が架かっていたとされ、その名も白潟橋。この橋のあたりで戦が繰り広げられたと伝わります。尼子氏の時代には大橋川、大橋とも存在しなかったのです。

■大橋は「雲州一の長橋」
1600年代のいつごろでしょうか。斐伊川の流れが松江方面へと変わり、宍道湖東側の首根っこ部分に斐伊川上中流部に降った雨がどっと流れ込みます。その量は以前の約3倍で、小川は大川と化します。とても竹の橋では役に立たず、大きな橋を架ける必要性に迫られたのでは、と稲田さんは推測します。堀尾吉晴氏(1543~1611年)が着手し、これが初代大橋。「湖上の上 島根意宇両郡の境に橋あり これを大橋といえり 雲州第一の長橋なり」(雲陽誌から)。当時、この地域で一番大きな橋で大橋、その後、次々と長くて大きな橋が架けられたため、松江の地をとって「松江大橋」と呼ばれるようになった。なるほど。それで、今は松江大橋なんですね。

■明治に大橋川の名登場
では、大橋川の名が登場するのはいつなのか。これが時代はずっと下り明治に入ってからのことなのだそうです。江戸時代の絵図には現在の大橋川筋を「伊勢宮川」と記したものはありますが、今のところ大橋川の名が最初に確認できるのは明治14~16(1881~83)年ごろにまとめられた皇国地誌だということです。大橋川の名称の由来は明らかに大橋なのです。人間に例えるなら、大橋川の遠い先祖が大橋ということになりますか。

■「百年の大計」の意味
斐伊川の流れは下流の松江に恵みをもたらす一方、過去に幾度も水害に見舞われてきました。時は移ろい、その対策として昭和に始まり、平成から令和へと継続されるのが、斐伊川神戸川治水事業。斐伊川と神戸川の上流の2つのダム、斐伊川の水を神戸川に流す中流部の放水路、下流部は大橋川の拡幅などで市民の命と財産を守ろうというもので、規模の大きさ、息の長い事業から「百年の大計」と呼ばれています。その大事業も上中流部はすでに完成し、下流部を残すだけとなっていますが、市民の皆さんの関心はそう高くはありません。梅雨の時季、誰のための「百年の大計」なのかを、もう一度よく考えてみる必要があると思うのです。
(瑛)

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