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市報松江 2019年4月号

コラム神国の首都 Vol.113

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島根県松江市 クリエイティブ・コモンズ

昭和41(1966)年10月9日、「松平不昧公百五十年祭」開幕初日の松江市は青空が広がり、朝から着物姿の風流人たちで、それこそ空前絶後の賑(にぎ)わいを見せていました。中でも注目を集めたのが、赤山(北堀町)に再々建された明々庵。殿町の家老邸に不昧公が建て、その後に東京の松平本邸に移され、さらに松江に戻されて荒廃の末に解体、保存されるという数奇な運命をたどってきた同庵。復興は百五十年祭の目玉事業であり、同庵で記念の茶席を設けるというのはまた格別の意味を持つことでもあったはずです。
県立博物館(現在の竹島資料室)で「記念特別展」のテープカットがあった午前9時、明々庵の茶席(大阪席)では、すでに与次郎作の釜が松風の音で茶客を待ち構えていました。本席の床には兼好法師筆の小幅、水指は古備前筒…。素人にはチンプンカンプンですが、その道の人たちからすれば、とてつもない道具とのこと。そして、その茶席を設けた人は、何と日本料理でその名をとどろかせる吉兆(大阪市)の創業者・湯木貞一氏だったのです。

■吉兆と松江の深い縁
「吉兆と松江は不昧公でつながっているのです」。2月中旬、松江市内のホテルであった「不昧公200年祭記念事業」の「不昧公ゆかりの食文化」講演会(松江郷土料理研究会主催)で、貞一氏の孫で本吉兆社長を務める潤治氏が、いきさつや吉兆の歴史などを語ってくれました。
実家の料亭で板前の修業をしていた貞一氏は、24歳の時に運命の出合いをします。不昧公が記した「茶会記」。「料理にも道具にも季節感があり、目からうろこが落ちた」という貞一氏は30歳で独立し、カウンター席だけの「御鯛茶処 吉兆」を開きます。季節感を取り入れた茶懐石、タバコ盆をヒントにした松花堂弁当へと進化させ、36歳からは茶道を習い始め、不昧好みの茶道具の散逸を防ぐために収集にもエネルギーを注ぎ込み、湯木美術館まで設けます。昨年、松江市であった200年祭記念の博覧会に、同美術館が雲州蔵帳所載の6点を貸し出していることからも、その所蔵品のすごさがうかがえます。「茶会記」が貞一氏の運命を変え、今の吉兆を築き上げるきっかけになったと言ってもいいのかもれませんね。

■縁をつないだ人物は?
もう少し掘り下げてみようと思います。若かりし貞一氏が「茶会記」を手にしたのは単なる偶然だったのか、それとも必然だったのか。百五十年祭の記録を書き留めた手記「松平不昧公 百五十年」の中に気になる一文があります。「田部さんから特に気に入られている湯木吉兆庵…」。田部さんとは、当時の県知事で茶人としても知られ、百五十年祭を取り仕切った田部長右衛門氏にほかなりません。貞一氏は当時の大阪府知事からもかわいがられていたといいます。修業に励む貞一氏の姿を目にとめた、あるいは聞き及んだ田部氏が、何かの折に「勉強しなさい」と「茶会記」を手渡した、という推測はいかがなものでしょうか。

■ディープなまち・松江
「客の心になりて亭主せよ 亭主の心になりて客いたせ」。不昧公の言葉は、お互いを思いやる心の大切さを説いたものです。吉兆にせよ、不昧公ゆかりの大徳寺孤篷庵(京都市)にせよ、不昧公を軸に強い思いやりの糸でつながり合っていることを感じないわけにはいきません。百五十年祭が明々庵の復興、200年祭のファイナルイベントが今秋の菅田庵改修とお披露目の記念茶会というのもきっと何かの縁なのでしょう。やっぱり松江はディープなまちなんですねえ。
(瑛)

執筆にあたって、湯木美術館(大阪市)から貴重な資料・情報をご提供いただきました。感謝申し上げます。

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